学校とICT環境
ICTという言葉が使われだしてどのくらいたっただろうか。
近未来を描いたアニメや映画の中では、一人一台PCがある教室や、液晶パネルをもった黒板(ディスプレイと言うのが正しいか)が登場していたように思う。しかし、実際には何年たっても黒板とチョークで、あってもホワイトボード。パソコンはコンピュータ室にある貴重なものという状況だった。
しかし、新型コロナウイルスの流行や、GIGAスクール構想によって、この状況は一変した。急に児童生徒一人ひとりにPCが配られ、校内LAN環境も整備された。整備されたといってもまだまだ駆け出したばかりで、どのように使ったらよいのか、そもそも環境は十分なものなのか、検討すべきことはたくさんありすぎる。
変化するには膨大な労力が必要だ。
最近は教員の長時間労働が問題になっている。毎日同じ業務を続けていればいいのであれば、定時で出退勤することも可能だが、日々変化することに対応しなけらばならないとなれば、果たしてそんなことは可能だろうか。ICT環境が一気に構築されたおかげで、それを活用しないわけにはいかなくなった。どのように使ったらよいのか。それを考えて授業を作り直すだけでも大変な時間がかかるのだ。
構築されたばかりのシステムを使っていると、どうしても物足りない部分に目が行くようになる。
「もっとこうすることはできないのか」
「このような使い方はできないのか」
今までは何とも思っていなかったことにも、使い始めれば気づくようになる。それを繰り返して初めてよい教材づくりや、機器の活用ができるようになると思うのだが、日々そうした時間を確保することは非常に困難である。
大学で教育を学んでいたときに、「ICTでなくても教育効果があがればいいのだ」というような文句を見たことがある。教育というものを考えるときに、児童生徒にとって最善の方法であれば、必ずしもICTを使用する必要はないということだ。教えるべきことがあって、その教え方にICTがうまく当てはまればそれを使うといいという考え方には、確かにその通りだと私は考えてきたし、今もそう考えている。
しかし、この言説にはICTの活用を探る行為をとどまらせる効果もある。
「ICTが使えなくても大丈夫」
そう思わせてくれる魔法の言葉だ。
生徒がPCを活用する手伝いをするようになって感じていることがある。それは、基本的なPCの使い方を心得ていない生徒が多すぎるということである。WordやExcel、PowerPointで何かを作ることは意外とよくできる。そうではなくて、システムのアップデートの適用だとか、ファイルの保存場所はどこにすべきかとか、そういったことが全くわかっていないのである。特にアップデートが適用できないことは大きな問題だ。普段生徒が使っているスマートフォンのようなものであれば、システムアップデートが適用されていなくても、特段大きな問題に直面することは少ない。しかし、windowsの場合はアップデートの再起動待ちの状態で充電が切れようものなら、次回起動時に不具合が多発するのである。(私はこの不具合の対応に日々追われている。)
加えて問題なのは、教員のほとんどもこの手のことには詳しくないということである。普段アップデートを適用しなくても、「使えているからいいじゃないか」という態度の教員が多いのではないだろうか。そうやって放っておくことで、最終的に不具合が発生してから困るというのに。かつ、普段教員のPCはリモートで管理されているため、放っておいても大きな問題になることは少ないのである。これが、生徒のPCはそこまでがちがちに管理されていないため、不具合が多発するのである。
ICTの環境は整いつつある。しかし、情報の授業でカバーできることには限界があるり、教員たちのICTスキルを上げることは喫緊の課題といって差し支えない。
「パソコンは苦手だからできないでは仕事にならない」という言葉は私が子供だった頃に聞いたことがある。現在急激にICT環境が整備され、昔は思いもしなかったような状況になったが、教員側は変わることができていないのではないか。
変化するには膨大な労力が必要だ。その労力に加え、時間と、スキルを伝達する役割を担うものが、現在の教育現場には求められている。